今君に触れることができるなら


序章

もう何度めになるだろうか。

何の変化も見せない試験管を睨んでいた俺は、とうとう大きくため息をついて椅子の背もたれに身をあずけた。
「どこかで間違ってるんだろうな」
ここ数ヶ月酷使し続けている遠心分離機を恨めしげに見てそのまま伸びをする。かつては真っ白だったであろう天井にあちこち沁みが目立ち始めているのが目に入った。

「そろそろ一年…か」

俺がかつて在籍していた研究室を出てこの部屋に移ったのは確か去年の今頃。黄金週間も終わってこぞって入学してきた新入生達がようやく落ちつき始める季節だった。
長年師事していた恩師と袂を分かった後も俺は別の教授を頼らなかった。いっそ自分がしたい研究を具体的に事業に繋げられたら、と思い切って起業したのだ。「会社なんて少しの資金があれば簡単に作れるもんさ」とアドバイスしてくれる友人もいた。
紆余曲折あったが幸い学内の一室を提供され、研究に必要な機器類も借り受けることができた。無論大学側にとっては俺などけして歓迎すべき存在ではなかったから、与えられたのはメインビルディングとは別棟にある今では殆ど使われていない老朽化した建物の一角だったけれども。
もっとも、事業を始められたことと仕事を受注できることは全く別次元の話だ。結局は教授の元にきた研究依頼をお情けで分けてもらっている、というのが現状だった。このところ係り切りになっている案件もそのうちの一つだ。
「・・・・・」
近いうちに何か形にしないと不味いだろうな、と考えている時だった。

ふわと部屋の空気が動いた。

薫風香る季節。屋外はさぞ爽やかな陽気だろうが、部屋の窓は締め切ってある。まだ汗ばむほどの気温ではないので空調も切っていた。音も無くそれが背後から近付いてくるのを感じる。
「どう?調子は」
柔らかな、少し低めの声が問う。声の主は返事を待つことなく俺の目の前で止まったかと思うと、そのまま無遠慮に膝の上に馬乗りになってきた。
「おい…」
そして咎める俺に構わず「にっ」と薄い唇を弓なりに曲げて至近距離まで顔を近付けてくる。野郎の顔をこんな間近で見るのなんぞ本来ならば御免こうむるところだ。だがこいつ、香月だけは別だった。男相手に何を、と自分でも不思議に思うが香月は実に俺の好みの顔をしている。だからなのか…。香月から誘われた時、俺は躊躇することなく受け入れてしまったのだった。
斜め上から俺のことを見下ろす格好の香月の顔は相変わらず艶やかだ。こいつの瞳に見据えられると全ての抵抗を諦めてしまうのが常だった。俺の顔を映すシルバーグレーの瞳。太陽光があたると時には金色に見える不思議な色の瞳に俺はもう長い間逆らうことができないでいる。そういえば以前、ロシアの血がほんの少し混じっていると聞いたことがある。
思わず視線を外そうとした時、不意に香月が覆いかぶさってきた。有無を言わせず押し入ってきた舌に口内の粘膜という粘膜を念入りに舐られる。暫くは形だけの抵抗をしてみせていた俺だったが口蓋部分に触れられて思わず声をあげてしまった。くっと香月の喉の奥が鳴ったような気がする。一瞬かっとなったものの、それを合図に俺も香月の舌を求め始めた。
執拗に互いに互いの舌を絡め合う。
息を継ぐ間もない、貪り合うようなキスだった。
まるで長い間オアズケを喰らった後、漸く餌にありついた飼い犬のような。
けれども口端から唾液が零れ出てつつーっと流れ落ちるのに気付いた時、俺は我に返った。
「ちょ…よせ」
香月から顔を離す。
「どうしたの?このままやろうよ」
香月が不思議そうに俺を見る。
「そうはいくか。他人に見られたらどうする」
「でもそれどうするのさ」
下半身に注がれる香月の視線を振り払うように俺は徐に立ち上がった。
「大丈夫だ。すぐおさまる」
香月は俺の膝からずり落ちて床に尻もちをつきそうになったが何とか堪える。
「ひどいなあ…」
呟きながら不満そうに膨れ面をしてみせる。
「悪い。でも今日あたり東雲教授から何か言ってくると思うんだ」
「ああ…」
なら仕方ないね、とでも言うように香月は肩をすくめた。

…とその時、デスクの上の電話機が鳴った。ナンバーディスプレイの画面には東雲ゼミの番号が表示されている。
「はい、真壁ラボラトリー」
「真壁先輩。僕、來田です」
受話器から聞こえてきたのは若い男の声だった。
來田と名乗ったのは東雲ゼミの学生の一人だ。確か俺が教授の元を離れる半年ほど前に入ってきたように記憶している。
「先輩、明後日のミーティングの件なんですが…」
「明後日?」
そんな予定があっただろうかと完全に失念していた俺は焦ってつい傍に居た香月に声を掛けてしまった。
「香月、俺のスケジュール…」
途中で気づいてしまった、と口ごもる。
「香月さん…って以前東雲ゼミにいらした方ですよね?何年か前に亡くなったっていう…」
電話の向こうで來田が戸惑っている様子が窺える。
「い、いや何でもない。それより予定変更か何かか?」
「あ、そうなんです。実は東雲教授が…」
強引に話題を戻して用件を聞き、早々に電話を切った。

「うっかりだなあ」
頭を抱えている俺を見て香月が可笑しそうに笑う。
「ほっとけ」
顔をあげると部屋の大きな窓から入ってくる自然光を背に受け、そのまま消え入ってしまいそうな香月の姿が目に映る。
ふと無性にその体に触れたくなって右手を延ばしてみる。が、しかし俺の指先は空をきるばかりで香月に触れることはできなかった。

俺の友人、香月史峰は二年前の夏、自ら命を絶ったからだ。